中央構造線サイクリング大会、もしくは僕と南信州 (その 0.3)

大会の記事のつもりが、まだ全然スタートしてすらいない訳ですが、一方で始終一緒に走っていた京介さんの blog では既にゴールしてしまっており、そろそろ書かなあかん、と焦る日々です。しかしね、仕事が…
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そんなこんなで、上伊那で写真を撮ることに全力を捧げたような気がする、高校から大学3年くらいまでの6年間。最初は飯田線を撮ることからはじまったけど、好きだった貨物列車がいつの間にかなくなり、だんだん線路から離れて歩くようになり、そのうち伊那市の西春近公民館で写真展なんかやってみたりして。個展なんて身の程知らずだよなあ、と、今にしてみれば思うけれど、でも、当時の僕の写真は、今にして思えば、すごかった。なんというか、前のエントリで書いたように、僕はここにいる、ということのすべてを、写真だけで表現しようとしていたのだ、と思う。もうあんな写真は、一生撮れないかもわからんね。
それで、線路から離れて歩いて写真を撮るようになったり、
友人たちとしょっちゅう信州に行ってはあちこちで遊んだりして、
ますます、南信州に深入りしていった。ほんとによく通ったよなあ…
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さて、そろそろ自転車の話をしよう。
僕は運動が苦手だったし、まさか自分がロードレーサーに乗って、峠を走るなんていうことは、想像したこともなかった。でも、自転車は好きだったし、持久力には自信があった。
旅の手段としての自転車、というものを認識したのは、1995年の阪神淡路大震災の直後。いつものように、豊橋から飯田線の一番電車に乗るつもりで、大垣行きの夜行列車を待つ列に並んでいたときだった。
一緒に並んでいた大学生のお兄さんは、輪行袋を抱えており、これから四国を走りに行くんですよ、という話をしてくれた。僕は四国に行ったことがなかったし、何よりも、知らない土地を自転車で走る、という想像に非常にわくわくした。当時はまだ神戸周辺の罹災地域の鉄道が復旧しておらず、代行バスには自転車載せてくれるのかしら、とか、まあダメなら組み立てて走ればいいし、という話をしたのをよく覚えている。
当時は、そういう自転車をどこで売っているのかも知らなかったし、写真を撮ることだけで精一杯だったこともあって、まだ、それを自分でやろうとは思わなかった。だけど、駅からどこへでも歩く、というのは、それはそれで大変で、ああ、自転車があればいいなあ、と思ったことは、一度や二度ではなかったのも、それはそれで事実。なにしろ、僕のお気に入りの河原までは、田切駅から歩いて40分くらいはかかるのだ。自転車なら、大会前や、飯島を拠点にどこかへ行くときの、いつものトレーニングコースに入っており、10分かからないくらいだけどね。
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それから何年かして、大学院に入った僕は自転車通学をするようになる。
理由は単純で、終電とか関係ないから。自転車に乗るのは、かっこよく言えば、自由を獲得するためだった (笑)。
自宅から大学までは多摩川沿いの 10km を入れて、片道 20km くらい。昼間は気持ちいいし、夜は暗くて運転に注意が必要なのを除けば、けっこう夜景がきれいだ。最初は3段変速のママチャリだった。だけど、多摩川を毎日のように走るようになると、やっぱりロードレーサーの人たちには勝てないし、最高に気持ちよさそうな訳で。
それで、大学院一年目が終わろうとする冬に、近所のホームセンターで、マルキン自転車が作っている、Benetton Fomula 1 ブランドの、MTB っぽい自転車を買った。シマノの、そういう自転車向けのなんとか 050 というコンポで組まれており、フロント3速、リア7速で、リアディレイラーはなんとローノーマル (当時は、ちゃんとした MTB 用のパーツでローノーマルは XTR だけだった!)。フロントサスがついており、最高に楽しかった。
26/1.95 だったブロックタイヤをスリックに交換してみたり、26/1.5 とか 26/1.25 にしてみたり、半年くらいのうちにいろいろと手を入れて、すごく楽しかった。しかし、結局のところ 42×12 くらいのギア比では多摩川なんかの平坦路であっという間に回しきってしまい、全然スピードが乗らないのだった。重かったしね。ダメだな、と思ったのは、26/1.25 くらいのタイヤで、100psi (つまり 7気圧) 入れて 246 を走ってみたとき。いま考えるとシングルウォールのリムに 100psi って大冒険なのだけれど、ロードレーサー並みの気圧にして、どこまでいけるか、というのを試したときに、こりゃ俺はロードに乗るしかない、と思った。
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それで半年後、Giant の FCR-1 というフラットバーロードを購入。9 速の Tiagra で組まれており (当時のその価格帯の Giant の自転車はほぼシマノ純正で組まれており、非常にコストパフォーマンスがよかったと思う)、10 万をちょっと切る値段。飯田の「自転車のトライ」での通販で、防犯登録が長野県なのが、ちょっと嬉しかった。
すげー速い! 52×12 なんて平地で踏めないぜ!!
というわけで、全然人生が変わった、そんな瞬間。
それでいきなり飯島から杖突峠を越えて甲府まで。きつかった。
それからというもの、週末には後輩とあちこちの山を走り、
長期の休みになれば信州を走り、という生活。
まだ長距離を走るコツも、自分なりの旅の装備もできあがっていなかったけど、最高に楽しかった。
Lance Armstrong が Tour de France で4勝目を挙げた夏だった。
結局、この自転車には4年ほど乗り、8000km くらい走っただろうか。
いろいろいじったり調整したりして、最後はドロップハンドルの、ちゃんとしたロードレーサー仕様になっていた。国内の学会にはたいていこれを連れて行って、台風の島原半島を走ったりとか、いろんな冒険をした。おかげで、いい大学院生活だったと思う。
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そのあと組んだのがいまの自転車。CrMo のスチールフレームで、俺が乗るとぶっちぎりに速いのに、最強に渋くてかっこいいという評判。多少重たいけれど、FCR-1 でいろいろ試した結果の、自分に合った仕様で組んでいるので、上りも下りもガンガンいけるし、 3年目でほとんど何もパーツを交換せずにきている。まだ走行距離は 6000km くらいだけど、この自転車とは長いつきあいになりそうだ。
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この自転車に乗り換えてからは、伊那周辺をあちこち走りつつ、浜松から佐久間を経て県道1号を阿南のあたりまで走ったり、富士見から Tour of Japan の飯田ステージを見に行ったり、ずいぶんと南信州を走ったと思う。まだまだ、行ってみたいところは尽きないし、今年の夏もなんとか時間を確保して… と思っているところ。
さて、そんなわけでいよいよ次回、今年の中央構造線サイクリング大会です。
あっ、
いまの自転車では、月の近くにもいきましたよ。
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めじろ

今朝、駅にいく途中でなんだか見慣れない鳥がいるなー、と思ったら、巣立ったばかりのメジロの雛だった。小さいうちは目の周りが白くないのね。体型がなんとなくヒヨコっぽくて、これから身長が伸びて大人になるのだなあ、と思った。
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全然動かなかったので、もしかして巣から落ちたのかしら、と思って近寄ったら、10cm くらいの高さを飛んで逃げていったよ。がんばれー。
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ゲノムひろば

毎年恒例になった ゲノムひろば にいってきた。予算の都合で今年で最後かもしれない、という話もあるのだけれど。
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去年までは比較ゲノム解析ソフトウェアの話で、それでもけっこう普通の人に楽しんで話をきいてもらえたのだけれど、今年はあれですよ、納豆菌。けっこう強烈なインパクトがあったようです。一昨年は大阪天満橋、昨年は名古屋大で、それぞれ2日で1000人くらいの来場者で、それでも一日中誰かとしゃべっている感じでしたが、今年の秋葉原はなんと1日で1000人近い来場者。すごかった。10時からずっとしゃべっていて、途中でご飯を食べにいって、またずっとしゃべって、気がついたら17時で、おしまい。いやー、疲れたね。
しかし、こういうのは楽しい。オープンキャンパスなんかと違って、いろんな年齢層の、興味のある人だけがくるので、こちらとしても非常に刺激的です。
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枯草菌 (B. subtilis subsp. subtilis) で作った納豆 (納豆っていうのかな?) と、納豆菌 (B. subtilis subsp. natto) で作った納豆。発酵が進みすぎて、若干やばかった (笑)。納豆は発酵が進みすぎるとアンモニアが発生してやばい感じなので、賞味期限内に食べましょう。納豆菌は胞子形成するので、かなり不死身で、煮沸したり冷凍したくらいでは死に絶えませんが、冷凍しておけばその間は活性が落ちて冬眠状態になるので、冷凍保存するのもアリ。
そういえば、お客さんのなかに、フジツボの研究しているお姉さんがいらっしゃった。富士山型のいわゆるフジツボは、昨年ゲノムが解読されたらしい (うおー) んだけど、彼女がやっているのは浮遊物に付着するやつで、それとは違うらしい。
海洋生物、ロマンですなあ。いいなあ。
微生物もいいけどね。

FreeBSD + ZFS + QEMU + Windows

研究室では学生が Windows を使うので (こまったものだ)、大学がライセンス導入している Symantec Antivirus の Corporate Edition みたいなやつを使っている。これは、普通に僕らが電器屋さんで買ってくる奴と違って、サーバで集中管理できるようになっており、定義ファイルをサーバから更新したり、サーバから各クライアントをスキャンしたりすることができて、大変便利。
しかし、このサーバは Windows でしか動かなくて、研究室のサーバ部屋を兼ねている僕の部屋には、Windows の動くマシンというのは、ノートパソコンしかないわけです。じゃあ、Antivirus サーバのために一台計算機増やすか、といわれると、それは夏がつらくなるわけで、絶対無理。
幸いにして Antivirus サーバはそれほど重くないので、研究室の samba サーバになっているマシンに QEMU を入れて、WindowsXP を動かしていた。必要なときに vncviewer や rdesktop で画面を覗けばいいし、けっこう便利だったのだ。kqemu (QEMU accelerator) も動くから、けっこう速い。
ところが、最近 QEMU + kqemu をアップデートしたのがきっかけなのか、Antivirus の動作が変わったのか、Liveupdate をしたら急に重たくなり、ディスクのアクセスランプが付きっぱなしでほとんど動かなくなってしまった。FreeBSD 本体は元気に動いているのだが、rdesktop や vncviewer の反応は全然ダメで、qemu の process status をみると、ずっと ZFS への io が続いており、CPU 使用率は 0.5% とか、それくらい。
つまり、ディスクアクセスがボトルネックなのだ。それに加えて、ZFS な領域にディスクイメージを置いていたので、ZFS が足を引っ張っている状態。この ZFS な領域は、頻繁に更新されるものは置いてなかったので、UFS にすることを決意して、34GB のデータを他のマシンのディスクに rsync して、zpool を破棄して newfs した。
そしたら、一番しんどいときでも CPU 使用率が 5% くらい出るようになり、時間はかかるものの、ちゃんと Liveupdate も完了するようになった。
I/O がボトルネックになるのは、こういう virtual machine の常ではあるけれど、最近 FreeBSD に port された、VirtualBox とかはどうなのかしら。まだ安定してなさそうなので、手を出さずにいるのだけれど…
しかし、喫緊の課題は、ZFS やめてディスクがミラーじゃなくなっちゃったので、これを gmirror か何かでミラーすることである。これは、一度止めないとだめだな…

中央構造線サイクリング大会、もしくは僕と南信州 (その 0.2)

そんな訳で、ちょくちょく南信州に通うようになった高校時代。
まだ夜行列車もたくさん走っていた時代で、東海道線の大垣行きや、中央線の急行「アルプス」、それから「ちくま」に、ずいぶんお世話になった。いつも予定なんかなかったけれど、夜、ふらっと駅に行けばいつでも信州へ行く列車に乗ることができて、それに乗ればいつでも信州へ行ける、というのは、なんだか不思議な安心感だった、と思う。
疲れた時に、新宿駅西口から出て行く、駒ヶ根ゆきや飯田ゆきの高速バスを見て、ああ、まだあれには乗らずに、もうすこし頑張ろう、とか思える、というのは、なんだか不思議な感覚だけれど、今でもそれが僕を支えてくれているのは紛れもない事実。別に自分の実家がある訳でもなんでもないけれど、ただ、そこに帰るところがある、というのは、ものすごい力になるんだな、と思う。
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僕はまだ観たことがないのだけれど、「駅 STATION」という映画がある。それを撮った降旗康男監督が、もう廃刊になってしまったJTBの「旅」という雑誌に書いておられた言葉を、僕は一生忘れないと思う。「駅は、ジャンプ台なんです。いつもそこにあって、都会へ飛び出していくことができる」と。ジャンプ台であると同時に、いつでもそこに戻ることができる、という、チェックポイントでもあって、それはとても大切な心の支えなんじゃないだろうか。
それで、
年に6回程南信州に通い、
毎回5本くらいのフィルムを消費して、
僕は何かを探していたのだ、と思う。
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写真を真剣に撮り始めた理由というのはおそらく、
ここが自分の故郷なのだ、ということを認識したからで、
汽車旅が好きだとかそういうのは、
きっと表向きの理由だったんだろうな、と思う。
僕は死ぬ迄此処にいる、と、叫びたかった。たぶん。
それで、
カメラを持って、列車を追いかけて線路脇を歩き続ける、
という日々に別れを告げて、
カメラを持って、上伊那をひたすら歩く、
ということを、ずっと続けよう、と思った、そんな、高校生最後の冬。
あ、写真は、夏だけれど。
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そうして僕は、国道153号や、県道18号を歩きはじめた。

中央構造線サイクリング大会、もしくは僕と南信州 (その 0.1)

せっかくなので、なれそめから書くことにしよう。
たぶん今まで、ちゃんと書いたことないしね。
そんなわけで、今回は自転車成分はゼロ。おそらく次回も (笑)
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1994 年の夏、僕は初めて飯田線に乗った。たしか、7月の21日だ。
JR の時刻表を開くとそこは、なんとなくミステリーゾーンで、不思議なほどスペースが空いているのだ。というのは、端っこの豊橋-豊川だけたくさん走っていて、真ん中のあたりは1時間から3時間くらい列車の間隔が空いているから、なのだけれど。
そのときは時間の都合でちょっと乗っただけで、岡谷から伊那本郷 (飯島町) まで行って、引き返した。でも、なんとなく、ここはいいところだな、と思って、また来ることにした。青春18きっぷを片手に、次に訪れたのは、ちょうど1ヶ月後。
朝早く岡谷駅について、7時半の列車に乗る。まわりじゅう同じ制服で、ぎょっとしたが、ラッシュの時間帯でも30分に一本だから、学校に行くには、同じ列車に乗るしかないのだ。高校生がみんな降りてしまうと車内はがらんとして、そして、南アルプスと中央アルプスを両側にみながら、のんびり走る、その静けさがとても印象的だった。
天竜峡から、信州最南端の中井侍まで乗って、天龍川の美しさに息を呑み、そしてまた引き返す。車内で出会った、南アルプス縦走から下山したおじさんとの話やら何やらと、突然の夕立と、雨上がりの風景の美しさにふと降りてみた、田切駅。
田切駅のそばには当時、小松屋さんという小さな雑貨屋さんがあって、そこのご夫婦に迎えられて、南信州、という土地の温かさに触れた、そんな気がした。
ふれあいのかけらが、人生を変えてゆく、という唄があるけれど、
そんな、高校時代の思い出の1ページ。
1ページだけじゃ、到底収まらないけれど、それはまた次回。

中央構造線サイクリング大会 (その0)

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行ってきた。
最後の最後で、水筒カラなのに、自分のいた集団が完全にレースモードに入ったりして、若干死にそうでしたが、無事に東京につきました。
一緒に走ってくださったみなさま、スタッフのみなさま、どうもありがとうございました。
詳細はそのうちまた…

パリへ!

俺が行く訳じゃないですが。
TdF は2度目の個人タイムトライアルが終わり、あと3ステージ。
別府・新城のタイムアウトはもうないでしょう。
あー。
パリ行けるのかー。
すごいね。
大騒ぎになるんだろうなー。
来月のサイスポは、額に入れて飾ろうかしらん。
そして僕は、いよいよ中央構造線サイクリング大会に行って参ります。
雨? むー。