3ヶ月近くかかって、ようやく読み終えた。長かった。
ちょうど、いま僕が関わっているゲノムの解読プロジェクトも終盤戦にかかっているところで、この本の著者の言葉を借りれば、「神様がこの生物のゲノムを書いて以来、まだ誰も読んだことのない」ファイルが、僕の MacBook のハードディスクに入っている、という状況。配列の解析、というのは、想像以上に時間と体力のかかる仕事だと実感しているけれど、非常に愉快だ。
最後の方から二箇所、引用することにしよう。
Science is the only legitimate way to investigate the natural world. Whether probing the structure of the atom, the nature of the cosmos, or the DNA sequence of the human genome, the scientific method is the only reliable way to seek out the truth of natural events. Yes, experiments can be misguided, and science can make mistakes. But the nature of science is self-correcting. No major fallacy can long persist in the face of a progressive increase in Knowledge.
Nevertheless, science alone is not enough to answer all the important questions. Even Albert Einstein saw the poverty of a purely naturalistic worldview. Choosing his words carefully, he wrote, “Science without religion is lame, religion without science is blind.”
科学は自然界について調べるための、唯一適切な方法である。原子の構造や、宇宙の成り立ちや、ヒトのゲノム配列といったもののどれを調べるにしても、自然界のできごとに関する真理を探るためには科学が唯一の信頼できる方法である。もちろん実験は間違うことがあるし、科学も間違いを犯すことがある。しかし、科学はそれ自身を修正することができ、連続した知識の集積によって、大きな間違いが長い間にわたって残ることはありえない。
それでも、科学だけではすべての重要な問題に答えるには不十分である。アインシュタインでさえも、純粋に自然主義的な世界観の貧困さに直面している。彼の言葉を注意深く選べば、彼は「信仰のない科学は不完全であり、科学のない信仰は盲目である」と書いている。
それからもうひとつ、違うところから。
In that context, science can be a form of worship. Indeed, believers should seek to be in the forefront among those chasing after new knowledge. Believers have led science at many times in the past. Yet all too often today, scientists are uneasy about admitting their spiritual views. To add to the problem, church leaders often seem to be out of step with new scientific findings, and run the risk of attacking scientific perspectives without fully understanding the facts. The consequence can bring ridicule on the church, driving sincere seekers away from God instead of into His arms. Proverbs 19:2 warns against this kind of well-intentioned but misinformed religious fervor: “It is not good to have zeal without knowledge.”
そういう意味では、科学は神をあがめることのひとつの形になりうるのである。はっきり言えば、信仰を持つ者こそが、新しい知識を求める者たちの間で先頭に立とうとしなければならない。過去には何度も、神を信じる者たちが科学を牽引してきた。しかし今日においても、科学者たちにとって自分の信仰を言い表すことは容易ではない。さらに問題を難しくしているのは、教会の指導者たちが新しい科学的な知見から取り残され、それゆえに充分に事実を理解することのないまま科学的な見方を攻撃することがしばしば起きる、ということである。結果として教会に対する嘲笑を呼び、誠実に神を求める人たちを神に近づけるどころか遠ざけてしまうことになるのである。箴言19編2節はこのような、善意ではあるが間違った情報に基づく宗教的情熱に対して「知識のないまま熱意を持つのはよくない (英文から直訳)」と警告している。
「キリスト者だから」○○はしない、とか、信じない、というのは簡単で、信仰的な選択に見えることも多いけど、僕は思考停止というのは決して正しくない選択である、と思う。信仰というのは、神様との交わりの中で、聖書によって日々新たにされる (改革派教会的な言い方でいえば、まさに、「改革され続ける」) ものでなければならないはずだからだ。科学的な発見や知見に関して思考停止に至る、というのは、いわゆる「証にならない」行動であって、何事においてもキリスト者として真実を求め続ける姿勢を貫く、というのが重要ではないだろうか。
他にもいろいろ書きたいと思うことはあるが、ちゃんとまとめないとよくないと思うので、それはまたの機会に。