カメラとか

明日は神宮球場で慶早戦があって、撮影を手伝いにいくので、久々にカメラを引っ張り出してみた。Nikon の FE2 と New FM2 である。レンズはまあ、共有できる機材だし、適当に持って行けばいいだろう。
最近すっかり写真から遠のいてしまっている理由のひとつが、機材が変わってしまったことだったりする。以前使っていたのは Nikomat FTn という奴で、これは Nikon F (初代) と同時期の製品で、廉価版だったのだが、とにかく猛烈に頑丈でちゃんと動く代物だった。鞄にそのまま放り込んであちこち連れ回したのだがビクともせず、しっかり働いてくれた。もちろんでっかくて重たいし、決して高性能なカメラではなかったが、シャッターが落ちるときの感覚がちゃんと自分のものになっていて、身体の一部みたいな感覚だったのだ。昔の機械だから、電気で動く仕掛けというのは露出計だけで、電池がなくたって写真は撮れる仕掛けだ。露出計も、いまのみたいにうるさくなくて、ファインダーの隅のほうに針があって、これが上下に振れるだけ。目盛りもなにもない。FTn は、2台もっていたのだけれど、一台は途中で中古で買った奴で、こいつは冬の信州でグリスが固まったのか、調子が悪くなって、それからだんだん動かなくなってしまった。もう一台はずっと長名家を撮り続けてきたカメラだったのだが、こいつは一昨年の秋の神宮球場で仕事中に、フィルムが巻き上げられなくなった。中でリンクが外れたとか、そういうのだと思うが、さすがの Nikon も、もう修理をしてくれないそうで、残念ながら新しいカメラに乗り換えることになったのだ。そういうわけで、新宿のある店で FE2 を買い、中野のある店で New FM2 を買った。どっちもかなりの破格で、FE2 は状態は最高なのに 38,000円で、FM2 のほうは外観が多少傷んでいるものの、モータードライブつきで 30,000 円だった。
最近のカメラは電子化されていて、ファインダーの上下左右に液晶やらなにやらで、いろんな数字が表示される。これはまあ、仕事で忙しい撮影をする場合には確かに便利なの(かもしれない)だが、余計なお世話である。思うに、ファインダーでピントを合わせる作業というのは、被写体を観察してどう撮るか意志決定をするという、写真を撮る人間にとってもっとも大切な瞬間のひとつなのであるから、そこにあれやこれや数字が出てくる、というのはなんかこう、芸術に対する一種の冒涜であろうと、そう思うのだ。ちょっと前に、ファインダースクリーンの上にスーパーインポーズされて数字が出る奴があった気がするが、言語同断である。カメラは道具であって、自己主張するべきものではない。
FE2 も New FM2 も、既に製造が中止になっている機種だが、僕にとっては充分にハイテクな機材である。FE2 には、AE といって勝手にカメラがシャッタースピードを決めてくれるとてもありがたい(と人のいう)仕掛けがついていて、これのおかげでファインダーの左にはずらっと数字が並んでいて、針もふたつある。最近のカメラに比べればずっとシンプルだが、ややこしいことこの上ない。New FM2 は、機械式のシャッターなのでAEがついておらず、露出計も + と – と○ の、LED が点灯するだけである。買うまでは、なんかディジタルな感じで嫌だったのだが、使ってみるとこっちのほうが自己主張が少なくていい感じだ。穏やかな感じのカメラだと穏やかな気持で撮影ができる。これは重要だ。
ちなみに、FE2 と New FM2 の前期型なので、シャッターはチタン製だ。チタンのシャッター幕に、ハニカム加工といって、7800 Dura-Ace のチェーンリングの裏側みたいな肉抜きがしてあって、これは大迫力である。チタニウムというやつはこう、ちょっと前の時代に写真をやっていた人とか、自転車に乗っている人のハートを強烈に刺激する物質である。

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